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文学談話室

おもにシナリオ脚本を中心に小説・音楽・旅行記など書いています

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短編小説「意表」

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作家のたまご


<


短編小説「意表」
毎朝のことだがバスターミナルから吐き出された人たちは大船北口駅に向かって駆け出す。
(いけない、遅刻したらあの部長から雷落されちゃうよ)
廣井重信も例外でない、大船駅の北口階段をエスカレーターの右側を二段飛びしてダッシュして走る。
電車を降りてこちらに駆けてくる猛牛とぶつからないよう、右に左に。
身体をくねらせて、サラリーマンの悲しい宿命だ。
定期を自動改札機に入れて、それを掬い取るようにホームまで、駆ける、駆ける。
この構内のマラソンが会社にとって仕事の実績にも、部長のおめがねにもかなうかだ。
なぜって
(私廣井は朝、床離れが悪いのです)

構内の時刻表を見る、今朝は東海道線か、横須賀線か、違うホームから同じ東京方面行きが発車する。
7;29快速東京、7;26快速千葉
う~ん、三分横須賀線が早いが、新橋の地下エスカレーターが混むし、よおし遅い東海道線だ、頭の中で素早く計算をしてまた駆ける。
少しでも早くホームに、エレベーターが閉まろうとしているのを見て
「すいません」
と言ってドアーに手を掛けて滑り込んだ。中の数人が迷惑そうな顔をして広井の顔をじっと見る。
眼のやり場に困り、
「すいません、急いでいたものですから」
下のホームに降りてい行こうとしている密室のエレベーターに車輪の軋む音が聞こえてくる。
ホームで停車している電車に身体を後ろにねじ込むようにしてわずかな場所を作るのだ。
このあと、電車が続いてまいります、無理をなさらず次の電車をお待ちください。
あわただしい駅員のアナウンスが、いつもののんびりした声と違いけたたましい。
ドアーが閉まろうとして手を掛けた広井の側の女性が駆けてきて手に握っていたカードを落としてしまった。

廣井は本能的にドアーから手を離して、女性が落としたカードを見るとSUICAだったが、屈んで拾って差し出した。
一分一秒争うよな追い詰められた時でさへこれまでも女性に親切でハンカチ・財布・めがねケースまで拾っている。
コーヒーブラウンの薄手のブラウスにラベンダー色のスカートをはいたすらっと伸びた足をした女性はかっこいい。
、「どなたか知りませんがご親切に、定期券が切れて今朝これを買ったもので」
一寸、SUICAを大切そうにホームのほこりを払ってバッグ゙に入れた。

廣井には本能的に困ってる人がいれば、遅刻しようが助けてあげたい、そんな気持ちがあるのだ。
以前も新橋駅の地下鉄銀座線の階段でうずくまっている老婆を発見、
自分が遅刻するのもかまわずに、駅員に通報、
急いで駆けつけた救急隊員を見届けて会社に駆け込んだのだった。

時計は九時三十分、六階、東西通信営業企画部が彼の仕事場だ。
さすがに決まり悪く部屋に入るなり長身の彼は身体を三十度に折り曲げて、眼をそらすかのように横に歩き、
「遅れてすみません」
そっと自分の席に座る。
部長が、廣井のほうを向き、
「ところで十時からのプレゼンだが」
「はい」
「君の提案まとまっただろうね、楽しみにしてるぞ」
すっかり信用をしているようだ。
「まかせてください、」
自信たっぷりにアタッシュケースを開けて探すがない。おかしい、昨日深夜1時までかかってパソコンで打ち込んで印刷機のがーがーいう往復運動の騒音を気にしながら隣室に音が漏れないように苦労しながら刷ったのに、
「す、すみません、家においてきてしまいました」
いけないよ、机に置いたままで顔がひきつっているのがわかる。
「主任、また」
隣の席の小川夏美があきれたようにいう。
次に部長に聞かれた返事なんていおう、
頭の中でからからと鳴るようなむなしい考えが左右している。
「えっ、で、スタッフは君の提案を聞こうと思ってるんだよ」
廣井は机の引き出しを開けて紙をあさりながら答えた。
「あ、ありました、ここに」
とくちゃくちゃな紙を高く両手に持って皆に示した。
昨日提案を箇条書きにメモに書いておいたのが残っていた。
でも、これをつないで提案として説明しなきゃならない、きついなあ
広井の追い詰められた気持ちを知ってか知らずか、わあ、わあと失笑にも似た笑い声が課内全体に拡がってゆく

でも廣井には度胸があった。一見おっちょこちょいに見えるが会議が始まると、
豹変をする。くちゃくちゃのメモ代わりの社箋をテーブルに並べて、
「ええと、そこで他社との差別化戦略としまして、例えば」
と流暢に説明する。
「よくあんなメモで説明できるよね」
「っていうか、彼はこの課でも異色の男だから」
大井博美が隣の柏木恭太郎にひそひそ話をしている。
役員が、
「君、例えば、どうするんだね」
「そこで名づけてナチュラルリターン作戦、いわば自然に帰れ作戦で、せせらぎとか鳥の鳴き声を着信音に、また壁紙も川とか鳥とか花を、でケータイにも」
「ふ~ん、ケータイに」
「例えば鳥を小さくデザインしたりしてあなただけのケータイを、色もカナリアとか鶯色で、従来のケータイと差別化を図って・・・・・・・」
」と堂々と説明するので、
「廣井君は、失敗もあるけど、説明は堂々としてるね」
「ええ、彼は度胸があるというか、提案はなかなかユニークなところが」
と部長、課長二人がうなづいている。

でも遅刻しては、そんな失敗が心によぎった、廣井はわれに返り、側の彼女を見た。
「この前の・・・・・・あり得ない」
親切にしてあげたばかり会社に遅刻して会議室に駆け込んで部長・課長はじめ同僚の冷たい視線を浴びたが今日はなんとか大丈夫だ。

まもなく続いて電車がホームに入ってきて何とか身体をねじ込んで二人は何とか乗ることができた。
車内は、小田原から各自が違った方向を向いて電車に乗ったのか、後ろ、右、左、斜めとどこを見ても眼が触れ合う。
でも、幾ら混雑して肩と肩が触れ合うから、目のやり場がなくてもあまり見ていてはいけないと廣井は思った。
大抵は、どんなに電車の中に押し込まれても、それを耐えて黙って通勤に耐えている羊のようにおとなしいサラリーマン、OLなのだが、たまに足を踏んだ踏まなかった、肩に強く触れた、触れなかったで言い合いになって車内が緊張することだってある。

だが、持っている新聞も読めないし、長い五十分の車内は、時々相手の人を見ては眼をそらし、車内の中吊り広告に眼をやり、また人を見るという具合に眼の玉を動かさざるを得ないのだ。
初夏に近い車窓から緑いっぱいの木々が混雑の乗客の目を癒してくれているが、窓一杯の外の景色など見る乗客は少なく、極端だが、空、時々ビルの屋上のアンテナしか見られない人もいる。
廣井は、無言のまま、さっきの彼女と矢継ぎ早に去る窓の景色を見つめていた
戸塚、東戸塚を過ぎる頃、向かい側の横須賀線電車にはちきれそうな乗客が乗り込んでいる。

二分早く大船駅を出た横須賀線を追い抜こうとしていた。
「正解だった」
「えっ」
「東海道線ですよ」
低い声でつぶやくと、窓に頬を押し付けられるようにしていた彼女が
「はっ」
と廣井に聞いた。
「どこまでいらっしゃるんですか」
「虎ノ門迄です」
「偶然ですね、あたしも虎ノ門なんです」
横浜で顔をすり寄せていた二人のドアが開かなかったことでほっとしたのだが、ホームの
「上り、東京行き、3分ほど停車いたします、遅れています、寝台特急富士が通過します」
なんだい、今頃富士が通過するなんて、心の中で、マラソンは始まっていた。
やがて背中の後ろで、ご~っという音がしてブルートレインが通過してゆく
「おい、いい加減にしてくれよ、なにもこんな時間に」
低い声でつぶやいた。
窓に顔を押し付けられてゆがんだ彼女が
「お忙しそうですね、でも仕方がないですよね」
「あなたは悔しくありませんか」
「幾ら考えても、世の中、ままならないことだってあるんです」
と妙に落ち着いている。

川崎でどっと、人が降りる。廣井も彼女もところてんをつきだすかのようにするっとホームに出されてしまう。
幾らか空いたものの、南武線から都心に向かう人もいて広井も彼女もドアに手を駆けて電車に潜り込む。
多摩川の鉄橋を渡る。隣を走る京浜東北線も同じように、窓に押し付けられた顔のゆがんだ人を乗せて。

品川を過ぎてやっと、車内も足を一寸だけ動かせる広さが確保できる。
肩のふれあいもなくなると、人の顔のしわもなくなり、皆和やかそうに見えるのが不思議だ。
虎ノ門で吐き出されるように押し出され二人は交差点で、
「ではここで失礼します」
「明日もお会いしたいです」
「あたしは鎌倉です大船で降りて待ってます。3両目近くにいます」
そういってきびすを向けて廣井と反対方向に向かって歩いて消えた。

彼女の呼びかけで、広井は翌日大船駅に向かった。
バスを降りてすぐダッシュするのだ、でも今日はいつもと違って足が軽い。
「おはようございます」
彼女は丁寧に広井に頭を下げた。
「お、おはようございます」
黒色のカットソーにパンツ、今流行のAラインのベージュのドレスコートをまとっていてグリーンのガラス玉のネックレス、セシールの皮のバッグを肩に掛けている。
「お住まいは・・・・・大船ですか」
と聞かれて彼は、
「あ、いや、バスで中に入ったところで」
とことばを濁した。まだ、昨日会ったばかりで今朝は2回目の彼女との出会い、住所までいったら何かはしたなく見られてしまう。広井にはそういう用意周到なところがあった。
「あたしは鎌倉なんです」

廣井は、会社では自分の課では結構ジョークを言っては、
「廣井さんて、面白~い、天然もあるし、かわいい」
などと女の子から、いやいつも仕事で失敗して、主任の廣井は心配して庇ってあげているのに市川美奈にまでいわれてしまっている。

だが、彼は女の子と一対一で面と向かうとまったくだめなのだ。
とたんに口数も少なくなってしまう。
今年三十三歳になる彼としては、今まで本社総務部にいた時、社員の研修までやってきてことばも流舌なのだが、異性を気にするのかなぜ思ったとおり話せないのだろうかといらいらもしてくることもある。

車内は昨日と変わらないのだが、今日は気持ちが浮いている。
上り電車の人並みに少し押されてよろめきそうになった彼女を全力で走って品川駅で急速に速度を緩めたため将棋倒しになろうとして傾いた響子の身体を広井は支えた。
「ああ、そうそう昨日は大切なカード拾っていただいて、せめてお名前だけでも」
「ぼ、ぼくの名前は廣井重信といいます」
「あたしは小野響子といいます、響子って響くっていう字なんです」
「あなたは音楽家ですか、響子ってほら響くって音楽と関係あるんじゃないかと思って」
彼女は笑い出して、
「面白~い、でもあたしは虎ノ門の近くの航空会社のOLしてます」
「航空会社ってかっこいいじゃないですか、ひょっとしてキャビンアテンダント」
「皆、そういいますねえ、最初入った時は2~3年やりました、でも今はガイド係なんですよ」
相変わらずドアの窓に顔押し付けられながらも、昨日の苦痛の通勤とは違うのだ。
廣井は、何時ものぼくはどこにいったんだろう、こんなに滑るように話が淀みなくできるなんて
と自分の変容に驚いていた。
「お帰りは早いんですか」
響子に突然聞かれて広井は、
「いいえ、皆が帰ってしまっても、大抵一人で・・主任なんで」
「主任って大変ですね」
「誰か僕のことをいつしか残業マンて名前をつけて」
「残業マンね」

昨日偶然であったOLの彼女のためと思うと、苦虫つぶしたような部長の顔を思い出さなくてもいい。
五十分はあっという間に過ぎて新橋のホームに下りた。
地下鉄虎ノ門でおびただしく人の群れが吐き出されて階段を出て交差点をわたりそこで彼女と別れた。
小野響子は、
「明日もご一緒していいですか」
「ええ、もちろん、間違えないように、ぼくのケータイの番号教えておきます」
たった二日間、それも電車の中であった彼女にケータイの番号を教えることは」
なにか彼女に意味深に受けとられてもと思ったが、廣井は50分の混んだあの電車の中でも一緒に居たいと思っていた。
同じ虎ノ門だし、ようし、そう思っていった。
彼女にメモにケータイの番号を記して渡した。
「わかりました。お電話します」
「ああ、あなたの・・・・・」
「はっ」
「あっ。いや、失礼しました」
と言ってからあわてて口をつぐんだ。自分のケータイの電話番号教えても、彼女の番号聞くのはやめようと思った。
たった二回で聞くのは、あまりにこちらの意図が見え見栄になってはいけないと思った。
もうちょっと成り行きに任せよう、
そう思った。

三十三歳の彼にとっては、落ち着きを持っていなければ、年齢なりの渋さも大切かと思ったり、反面これがチャンスかも知れないのに、この機会を逃してはだめだ、お前は馬鹿だなあと人格が別々の方向に歩こうとするのを制御をする。

こうして次第に彼女と次第に親しくなった。
いつもの時間に大船駅でいつもの電車で、廣井はいつしか胸の膨らむ幸福感を感じていた。
五日目、広井は、
「あの、小野響子さん、今日か明日どちらでもいいですから僕と付き合ってくれませんか」
驚くぐらい自然に広井の口から出た。
意表をついた広井のことばに、
響子は一瞬、戸惑ったが
「ええ、あたしでよければ」
「そ、そうですか。じゃ、今夜ということで今日6時に」
そう、響子からデートの約束を取り付けた広井はにわかに早くなった心臓のときめきを感じていた。

その日、一日広井には会社の仕事がばら色のように輝いて見えた。
「みどり君、これからヤマムロ電気に行って、うちの新発売のケータイの状況見てきてくれる、ああ、富岡君とも一緒で、ちょっとアンケートとってきて」
「岡田君はその稟議書、10部ほどコピーして、その前に間違った字がないか」
「はい、廣井主任」
いつもと違って、皆に指図できるし、
その様子が部長にも伝わって。
「廣井君、今日は張り切ってるねえ」
営業企画課が広井のきびきびした行動で活気を帯びている。

「じゃ、今日はこれで、皆も早く帰りなさい」
廣井はそういって、急いでパソコンのスイッチを消し、腕時計を見た。
「どうした、残業マンの君が、珍しいね」
女の子が、
「廣井さん、これからデートって言うわけ」
「そんなんじゃないよ」
そういいながら、廣井はエレベータを降りてロビーを小走りで外に消えた。

三十分後、廣井は約束のゆりかもめモノレール新橋駅にいた。
「お待たせ」
黒色のジャケットにピンクのフリルのブラウス長めの黒のスカート、細いゴールドのネックレス、紫色のスカーフを巻いて小野響子が何時ものとおり1億円の笑顔で来た。いや、廣井には彼女の微笑が少なくともそう見えた。
「響子さん、素敵ですよ」
「ちょっと黒の勝負服できてみたの」
「えっ」
廣井は、会社を終えて、あらかじめロッカーに入れて置いたグリーンのコール天ジャケットに淡いパープルのシャツに淡いグレーのパンツの格好をしており、二人の装いはアンバランスだった。
彼女、フォーマルな格好していて、こちらは気軽にデートに誘ったんだけど、困ったなあ、改まったフォーマルの装いの彼女にどう話を持ちかけたらいいのだろう、自分で彼女を誘って今頃ドギマギするのではと考えた。
響子を誘っては見たものの、どう切り出したら響子が喜ぶだろうか、だめだなあ広井はと考えていた。

夜の帳が下りて銀座はこれからあでやかな夜の装いに衣変えしようとしていた。廣井がお台場を選んだのは、新しい東京の台場に行ってみたい、小野響子さんと二人で歩いたらと思ったからだ。二人は、一両目の前の席に向かい合って腰掛ける。
モノレールは静かに発車し、右折して汐留の高層ビルにはさまれるように、向かい合った二人の顔が車内の窓に移っていたがビルの窓からこぼれるように光りがさして、顔がうっすらと重なって見えてくる。
二人は窓に映る自分の顔を眺めて無言だった。
日の出桟橋を過ぎてやがて芝浦の黒い倉庫のかなたに白い弓のイルミネーションの東京ベイブリッジが遠くに見えてきた。芝浦駅を見ながら右よりに楕円形にカーブしてイルミネーションの東京レインボーブリッジに突っ込んでいく車窓を眺めながら、
「きれいですね、向こうの夜景が」
「ええ、ほんとに」
と響子が廣井にひと言言った。

台場で二人は降りた。
駅前の白亜のホテル日航台場がくっきりと浮かんでいた。
廣井がそっと左手を後ろに伸ばした。
柔らかい白い手が廣井の手を握った。
昼間は家族連れでにぎわった台場も今は静かでブロンズの自由の女神像の先にさっき渡ってきた白いイルミネーションのベイブリッジが遠く輝いていた。
東京湾岸がよく望めるようあたたかいぬくもりの木の遊歩道が二人を迎えてくれた。
彼女が、
「今日は残業なさらなくてもいいのですか、残業マンのあなたが」
「えっ、どうしてそれが」
「だって、あなたの行動からわかりますよ」

とにかく明るく振舞う響子に廣井はいつの間にか恋しているのを感じた。
「今日は実は、会社の女の子から、デートでしょうっていわれて」
「だってあたしに会うのが嬉しそうだし、誰が見ても、顔に書いてありますよ」
歩きながら彼には、響子が話す一言ひと言がダイアモンドが口からこぼれるように感じた。
「僕も三十三、彼女も同じぐらいかなあ、いやもう少し年上だろうか、どっちみち、なんか波長もいいし、これって最後のチャンスかも」

「あなたは、これまでお見合いをされたことありますか」
廣井は、響子に思い切って聞いてみた。
そんなこと聞いてどうするんだ、自分が好きだったらはっきりといえばいいんじゃないか
廣井は心の中にあせりを感じていた。
「ええ、それは、いろんな方に会いました。親父の会社を継ぐとして工場とか北海道の広大な森林とかありますとかいわれて」
「結局、巡り会わせがなかったのですね」
「そうだったんですか、僕もそれらしいことはしましたが、結局いまだに独身です」
「結局、お互い巡り会わせがなかったのですね」
「あなたのそういう正直なところが好きです」
広井は、響子からほめられて、
「いやあ、そうでもないんですよ、」
と大いに照れて見せた。

「小野さん、きれいですね、ベイブリッジが白いイルミネーションで輝いて、向こうが新橋、銀座です。左に僕たちの会社が、僕、一度あなたと来て見たかったんです、あれが観光フェリーですよ、それにしてもベイブリッジの車がすごい多いですね・・・」
「そう、あたし、ニューヨークに行ってた時のこと想いだしました。ちょうどハドソン川対岸から見るマンハッタンってこんな感じね」
「僕もこういう風景見ましたよ、マンハッタンの夜景きれいだったなあ」
「えっ、あなたもニューヨークへ」
「あれは五年ぐらい前の」
と、響子が留学生で住んでいたこととは違って、廣井はたった一回しか行ってないのに
「ええ、ニューヨークは僕にとって思い出のあるところです」
と話を無理にあわせるようにした。
今度、聞かれたらばれちゃうよ、
廣井は、話を別のほうに持っていかなければと思い、
「あの、響子さん、あなたが理想的な男性のタイプは」
「あたし、ですか、そうねえ、頼れるっていうか、優しくて、思いやりがあって、やはり頼りがいがあって、それでいて細かいことにくよくよせず、いざという時、あたしを守って・・・・・・・」
廣井は、響子の話をうなずきながら、
「あの、僕は少なくとも優しくて、思いやりがあって、細かいことには気にもかけず、そこまではあなたの条件にぴったりだと思いますが、あとの二つが、これがねえ」
響子はぷっと吹き出しながら、
「どうしてですの」
「いやあ、僕って案外そそっかしくて、この間も札幌出張を一日、日にちを間違えて千歳について電話したら」
「それで」
「君、明日こちらに来るんじゃなかったのか」
「いや、今日は19日のはず」
「違う、今日は18日、日曜日」
と言われてしまいましてね」
響子は、
「あなたって、面白い人、そういう失敗って憎めない」
とけらけらと笑った。
「いやあ、上司がいい人で君の今日の宿泊面倒見てあげよう」
ほっとしましたと笑い転げてる響子に廣井は話した。
廣井は響子が思い切り、自分の失敗を笑ってくれたので、急に壁がなくなって親密感が出てきたなと思った。
虎ノ門、霞ヶ関のビルは狭い土地からはみ出るように高層ビルが屹立していたが、赤坂、銀座に比べて黒い塊に見えて来る。
「経費節減で、どこの事務所も残業カットだなあ、これじゃ、日本経済が不況なのも」
、だめだ、あれだけ響子さんが笑ってくれたのに、もう次の面白い話ができないなんて、何でもっと女の子とふさわしい話ができないのだろう、
自分をもどかしく思っていた。

でも、なんでこんなに言葉が饒舌になるのかとも思う。
対岸のネオン、華やかな銀座、新橋から霞ヶ関、そして遠く新宿の超高層ビル群を見ながら、なんてロマンチックだろう。
広井はデジカメをかばんから取り出して写真を撮った。
「今度はあたし」、
響子もバッグからケータイを出して撮った。
歳老いた夫婦が仲良く目の前を過ぎていったが、振り返って二人のそばに来て、
「あの、もしよければ写真撮ってあげましょう」
「本当ですか」
響子が廣井の手を掴み、
「ここで」
といった。

二人は、柵にもたれながらどんどんきらめいて変化して行く光景を眺めていたが、
「響子さん、僕はあなたを・・す、好きに」
そういって響子にうんと近づいて抱きしめた。
「あたしも」
響子はそういって抱かれていた。

ある日、
「あの、あなたにお昼休み、近くの喫茶店で・・・・・」
今度は、小野響子から誘われた。
廣井は驚いた。
「えっ、このぼくに」
「あたし、お聞きたいことがあるんです。仕事のことでご相談に乗ってほしくて」
意表をついた質問に、
廣井は思わず、
「ぼ、ぼくでよかったら」

一週間はあっという間に過ぎて、母が作ってくれたハムがはみ出した不ぞろいのサンドイッチを右手にコーヒーカップを左手で廣井は持って眼は時計の秒針を追っていた。
その時、シャツのポケットが震えて振動が心臓に響いた。
小野響子からだった。
「ああ、どうも、7番線のホームで、はい、はい、そうします」
彼女の電話を受け止め、いつの間にか微笑んだ。
ぼくの反応を母は素早く受け止めて
「重信、もしかしていい人にでも会えたの」
廣井はあわてて、
「お、お母さん、そんなんじゃないよ」
「お前はとても優しい子なんだけど、女の人には・・・・・」
「わかったよ、母さん・・・・・・」
そういい残して靴べらで左足を押し込むようにしてせわしく戸をあけて出て行った。

十日過ぎたある日、廣井は社員の行動半径外の六本木の交差点に立っていた。
「お待たせ」
ベージュのキャミソールに白いカーディガン、濃いブルージーンズの彼女。
二人は赤白のテントを張ったアマンドに入り二階の窓際に席を取った。
信号灯が点滅し、十字路に止まっているバス、大型車、タクシーが交差していて青信号の合間を歩行者がせわしく横断していた。

「あたしもあなたと近くの会社に勤めています」
響子が口火を切った。
「どちらにお勤めでいらっしゃいますか」
「ああ、ぼくですか、東西通信っていってケータイでは結構有名な」
「あたし知ってます。東西のPL355、最近発売のこれ」
そういってバッグから赤いケータイを出して見せてくれた。

「ああ、このケータイ」
「どうしたんですか」
「実はこのケータイぼくが提案して、色々な鳥の声が着信音に組み込んだんです。それに一台一台違った鳥が小さく数種イラストになって壁紙に、あと、ケータイの色も鳥の色に近く、淡い色で」
「凄いですね、あなたは、ひょっとして会社の救世主かも」
「からかわないでくださいよ、もう」
廣井は彼女からほめられて頬が赤くなっていた。
「そんな頼りになる部下を持っていてお幸せですね」
「いや、部長はもう気まぐれで、この時は、君はこの課で一番頼りになるな」とほめてくれたのに」
「どうしたんですか」
「毎年、春の入学期と暮の商戦で大型店に派遣社員で出されるんです、お客様にケータイ薦めて売り上げあげようとするんですが」

「それで」
「ああ、このときは、おい、売り上げが悪いのは主任の君がもっとしっかりお客にアプローチせんからだ、この数字は恥ずかしくて上に報告できん」
と部長の雷が落ちて声が大きく、皆いっせいに仕事やめてぼくの顔見るんです」

「あたしも上司、特に部長は苦手なんです、いつも例の仕事はできたかねって突っ込みいれられて、あなたはどうですか」
「ぼくも同じですよ、あなたの会社の部長がどういう方かわかりませんが、ぼくのところの部長は遅刻がうるさくて、それでバスを降りてからすぐダッシュなんです、もうホームの電車に乗るまで」
「そうなんですか、あたし一番最初にあなたのすごいダッシュ見て驚きました」
「あなたは自分の仕事に自信がおありですか」
「はあっ、どうしてそんなことを」
「あたし、実は航空会社の添乗員やってるんです。お客様から海外ツアーのいいろいろなこと聞かれて、会社はできるだけ高いツアーに関心持つようにセールストークしろというんですけど、つい、お客様の懐考えて、こちらよりお安いツアーがっていってしまって」
「ぼくもそうなんです、大型店でお客様をお相手に、それは高いわ、他社はもっとといわれると、それではこちらのもっとお安いって、ああ、正直者はだめですね」
お互いがにっこり微笑んだ。

「同じ考えだし、これっていまだに結婚もできず、好きな女の子もいないぼくに神様が贈り物してくれたのだろうか」
ひそかに廣井はそう思った。
「あなたの会社の部長さんてどういう方かしら、あたし、どういう風にしてうちの会社の上司に合わせたらいいのかわからないんです」
「ここだけですが、あなただって苦手な上司がどこかに行ってくれないかと思うでしょう」
「そんなこと、ありっていうかおおありですよ、どっかほかにいくか、自分がどっかにいくかで」
「部長と意見が合わなくて、仮にお前なんかやめろといわれたらどうします」
「一応、あやまりますが、部長が怒ったら、その時は」
「はっ」
「僕、ほかの人材センターに登録してるのですよ、どっか条件のいいところがあれば、大した仕事してないんですよ」
「そうですか、転職っていうわけ」
「ええ、まあ、そういうことになりますかねえ」
彼女はにっこりと、しかし意地悪そうな微笑みを見せた。

数日後、エクセルで機種別売り上げ表を作成していた。
「廣井君ちょっと」

部長は、
「君には営業企画部から、わが社の製造部門である三重鈴鹿工場に転勤してもらうことになった」
思わぬこの部長の話にぼくは戸惑った。
「す、鈴鹿工場ですか?」
声はひきつって、部長の顔から眼を背けた。
「でも、わが社のケータイを発売するための販売促進で部長、ほめてくれたじゃないですか」
「君はわが社のケータイの販売企画では、いいろいろ提案してくれて見事だった
だけど、販売成績では、君の課は落ちている、君の将来を考えて製造部門の仕事も経験してもらわないと」

廣井重信は部長の突然の移動の宣告に頭が真っ白になった」
いつも販売企画で大型電化店を一緒に廻ってくれた薄井みどりが、
「廣井さんが鈴鹿工場なんて信じらんないわ」
と側に来て慰めてくれる。
「ありがとう」
「私、廣井さんを見倣ってるのに、広井さんがどっかに行ったら、私、だれを」
広井は、
「僕の同期の営業部の田川とか、総務の井上とかいるから大丈夫だよ」
こんなときぐらい、残業しないで早く帰れば良いのに、そう思いながら会社のためにはと本当の働きマンだなあ、苦笑いしながらパソコンのスイッチを切ったのは夜の九時をとうに過ぎていた。

「廣井さん」
部屋の明かりを消した暗闇の隅から声が聞こえてくる。
薄井みどりだった。
「廣井さんが鈴鹿工場だったら、皆、わたしたちのように広井さんを見習って仕事してるものにとっては、目標を失って、あ~あ、いったい何をこの会社に期待したら良いんですか」
「みどりさん、ぼくのことをそんなに、僕って楽天的でピンチに強いから」
と励ましながらも楢崎部長の今度の態度は理解できない。

「途中まで一緒に帰りましょう、広井さん、大船だし、あたしモノレールですから」

エレベーターを降りて明かりが暗い一階ロビーを廣井はみどりと一緒に歩いた
新橋駅に向かう虎ノ門のビジネス街は、さすがに昼の喧騒さを飲み込んで静かだった。
廣井はこの見慣れた虎ノ門の活気もしばらくおあづけかと思った。
信号を渡り、いつもはそこから地下鉄に乗るのだが、みどりが、
「新橋まで歩きません」
と言ってきたので、しばらくみどりの顔を見られないと思い、ゆっくりと歩いた。

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街路灯と自動車のテールライトがどこまでも伸びて、二人の影は長くなったり短くなったりしていた。
「廣井さん、ちょっとお茶でもして、どうです」
みどりが、鈴鹿工場の転勤話で落ち込んでいる広井を元気づけるようにささやいた
暗い道路まで、中の明かりがこぼれるようにはみ出している。
みどりが、背中に手を掛けるかのようにして、回転ドアのドアを開ける
中はカジュアルな感じの明るい喫茶店だ。
二人は、外が見えるピンクのソファに向かって腰を下ろした。

落ちついたピアノ曲が流れてきて、廣井は店内のお客の模様を眺めていた。
中ほどは一段ほど高くこちらを遮蔽するかのようにモザイク上のついたてがある。
その時だった、昨日までいつも一緒だった女性が赤いコートを着て入ってきてついたての後ろに消えた。
廣井は、一瞬はっとした。みどりと一緒にいる姿を見られては。同じ課内の女の子と言っても彼女は果たして、
その時だった、楢崎部長が店内に入ってきて、彼女の向かい側に腰掛けた。
彼女と部長は、まるで親子のように年が離れている。二十歳以上も離れているだろう。
部長が女性に声をかけた
ついたてが遮断していて二人の姿は動くたびにモザイク状になって移動して行く。
なにか話しているようだが、ついたてが邪魔でよくわからない。
でも、小野響子と廣井の部屋の部長が何を話しているのだろう。
そういえば、六本木の喫茶店で彼女から仕事のことでといわれて会って話した時の最後の
意地悪そうな微笑み、考えて彼女はもしかして僕の素行をずっと見ていたのでは、
そんなことありえない、あの小野響子さんが
しかし、彼は次第に血の気を失っていった。
「いけない、こんなこと考えるなんて」
「疑ってはいけません、何の根拠もないでしょう、小野響子さんがどういう人か、あなたが一番分かるはずです」
必死になって打ち消そうとするのだが、一方では、
「あなたは、小野響子さんにはまったのです、あの意地悪そうな微笑見ても分からないんですか」
耳元で別の声が廣井に囁く

みどりが、
「どうしたんですか、廣井さん、顔色が青いわよ」
みどりに答えられなかった。

「みどりさん、ごめん」
みどりは、同じ営業企画で広井と机を並べているうちに次第に気持ちが傾いていくのを感じていた。
というのも、
本木や原田は、みどりに、
「君、これ、大至急コピーして」
「あのコーヒー飲みたいけど」
みどりは、仕事を一生懸命やっているのに、ワードは誤字だらけ、エクセルの集計はいつも縦横合わず、社員からは、
「みどりは走りがいちばんいいよ」
「頼んでも遅いし、俺がそれで残業になるんじゃ」
と蔭で言われていたのだ。

そういうみどりを庇ったのが廣井だった。
「みどりさん、君の仕事大変そうだから、僕が半分コピーしてあげるよ」
「廣井、・・・さん、すいません」
仕事が遅い彼女とそれをカバーする主任の間に、みどりは次第に広井を慕う気持ちが芽生えていた。

一方、叔父から頼まれた東西通信工業の人員合理化、リストラ計画のお手伝いをして、叔父から広井のことを報告して、響子は最初は自分が役に立ってよかったと思っていた。
叔父から「今日はありがとう、何にも忙しくて何もできないけど、これで洋服でも買いなさい」といってくれた5万円をしっかりと握っていた。
しかし、叔父と別れて新橋駅か汐留の立ち並ぶビルのライトを眺めて、電車を待っているうちに、響子は涙が出てきそうになった。
「何で、何で私が・・・・・・」
自分で、自分に言い聞かせるように言ってみた。
小田原行きが流れるようにくねらせながら入ってきて、車内の人になった。
涙は止まらずに流れてくる。
自分は、叔父に頼まれたことをやっただけと割り切って考えようとしたが、いつのまにか、広井のことが好きになったのだろうか。
大船までの40分間、響子は自分でやったことがよかったか、どうかを心の中で自問自答しているうちに段々罪の意識を感じ始めていた。

翌日、営業企画部をはじめ春の人事異動の話で持ちきりだった。
廊下に人事異動が貼られて、大勢の社員が群がっていた。
小田武  札幌支店   支店長代理を命ず
坂本太郎 本社 販売管理一部課長を命ず
富岡浩一郎本社 消費者管理課課長を命ず
廣井重信 三重鈴鹿工場 生産管理副課長を命ず。
大勢の名前の中にたしかに彼の名もあった

営業企画部の部屋に入ると、部員が振り向いて一斉に広井の顔を見ながら拍手して迎えてくれた。
廣井は昨夜の事情を知っているので、さめた顔で皆を見つめながら、机に腰を下ろし、エクセルで営業支店別集計を始めた。

昨日までの廣井と違って、元気がなく、今日は廣井のいる販売企画課の皆も彼に気を使ってるのか、下を向いてもくもく仕事をしている。
廣井に一番同情しているみどりは、ケータイ新製品のチラシをDMとして封筒に入れているのだが、心ここにあらずといった感じで、さっきからチラシを指で四つ折にしながらも同じ封筒に2、3枚入れていて、ただ、手を動かしているに過ぎない。

何とか一日の仕事が終わりに近づき、課員も、
「主任、お先に失礼します」
と小声で廣井に挨拶して返って行く。
社員が、部長も帰ってしまって誰もいない部屋は蝉の抜け殻のようにむなしい。
シャツポケットのケータイがビビビと胸に響く。
「おい、廣井、お前なに三重工場に転勤だって」
「そうなんだ」
「澤田、僕のどこがいけないんだろう」
「えっ」
「・・・・・・・・・・・」
「大分ショックのようだなあ」
「なぜ、こんなことになったかわかんないんだ」
「とにかくお前の今の気持ち、聞いてやるから、いっぱい飲んで」
廣井は総務の同期の澤田から誘われて、
一時間後、新橋の焼き鳥屋にいた。
「僕、あんなに部長を信頼して、一生部長についていきますなんていってさ」
澤田は、焼き鳥を右手に持ちながら、
「あのなあ、会社って言うところは、自分が一生懸命働いても結果が裏目に」
「総務の君には分からないよ、販売企画って言うところは、企画立てながら営業をやるところで、幾らいい提案しても売り上げが悪いとどうも」
と廣井は澤田に訴えた。
澤田は、
「どうだ、もういっぱい、酎ハイでも」
「うん」
廣井は元来呑めないのだが、お酒でも飲まないとやりきれないと思っていた。
「僕は、総務だけど、君の部長の噂はいいよ」
と落ち込んでいる廣井に肩をかけるように励ます。
「実は、僕の最近の出来事なんだけど」
そういって、廣井は、大船駅のホームで女性が落としたカードを拾って親しくなって、昨日その女性が廣井の上司の部長と親しく喫茶店で話している顛末を話した。
澤田は、
驚きの表情で廣井の顔をじっと見つめていたが、
「それだよ、君も目撃した部長と女性」
「僕は実際目撃したんだけど、まだ、まさか部長がそんなことを・・・・・信じられないんだ」
「気をつけろよ、そういう女性には」
「実は、小野響子さんというんだけど、すごい仕事のできそうな」
澤田は、
「お前、小野響子が好きになったのか」
「うん、まあ」
廣井は、
「今夜はどうも、もういっぱいビールを」
「もうよせよ、お前は呑めないんだから無理するな、
澤田はこんなにお酒を飲んで酔った廣井を見るのは初めてだった。
「もう帰ろう、俺送ってあげるから」
外に出て、同じ千鳥足で歩いているサラリーマンを見ながら、組織の中にいる働きマンもかごから出ることのできない小鳥のようだと哀しくなった。

同期の澤田が、廣井を心配し、気遣うかのように、
「今夜、ずっといてお前の悩みを聞いてあげる」
そういってタクシーを呼び、廣井を抱えるように先に座席に座らせ、運転手に、
「大船駅まで」
といった。
廣井は、同期の澤田に寄り添われて眠っていたが、
「澤田、今夜はすっかり世話になった、ごめん」
と言ってまた目を閉じた。

一方、小野響子は、会社に出ても元気がなかった。
響子が広井に話した航空会社のOLは実は嘘で、響子は外資系の人材派遣会社に勤務していた。
米国留学も手伝って響子は学校卒業後、普通のOLの道は歩きたくなかった。
それで外資系の人材派遣会社に入って、持ち前の明るさと積極さ、誰にでも優しく、それでいて人を見抜く力と英語のほかにフランス・スペイン・韓国語も駆使して、誰の目からも頼りがいがあると見られて何時のまにかアシスタントディレクターになっていた。
響子は企業にうずもれている優秀な人材を発掘するこの仕事に生きがいを持っていた。
それだけに周囲の皆もその活躍に目を見張った。
高度成長経済期の真っ只中にあって、会社という会社をチェックしては、自分から人事部に乗り込んでは交渉をした。
「あの、ヒューマンサプライ社の小野響子と申します、本日うかがいましたのは・・・・・」
と、企業で中高年を勧奨退職させる際の社員を何とか選び出して、優れた人材の放出を待たずに他企業に斡旋させることを何よりも仕事の生きがいとしていたのだ。
でも、当時は、
「せっかくですが、わが社も新規事業の推進とか、販売の拡充でむしろ優秀な方を求めている状況で」
「はあ」
「ヒューマンサプライ社にわが社がほしい人材はいませんでしょうか」
と逆に要請をされたのだ。
響子は、社内に「転職電話24時間相談室」
を設けて、応募者の秘密は厳守いたします。仕事についてお悩みのかたのご相談に応じますと積極的に人材の確保を行った。
その成果も実り、電話室からまわされた転職者が響子のもとを訪れてその応対も忙しく、気がつくといつの間にか、響子のデスクだけが蛍光灯で照らされていて腕時計の針は11時を過ぎようとしている。
「いけない、終電に間に合わないよ」
電気を消して、ここからいつも素早く走り出し、ホームに上がり急いで電車に駆け込むと同時にドアが閉まり、ホーム構内のランプが消える。
いつも、どうしてこんなに働くのだろう、
だからいまだに結婚できないんだわ、アシスタントデレクターでがむしゃらに働き、毎月の給料袋は重いのだが、それとはその代償はあまりにもさびしく孤独なのだ。

でも、翌日には優秀な人材を望んでいる会社に出かけて世話をして、響子もそれを喜んでいる。
たまに、自宅に響子あてに転職者からのお礼の手紙がくることもあった。
「前略、小野響子さま、失礼とは思いますがお礼のお手紙を差し上げたいと思います。私はヒューマン・サプライ社のおかげであなたにお会いでき、面接の結果、今の会社で張り切って仕事をしています。コンピューターの専門家として誰もが頼りにしてくれていて大きな喜びです。
本当にありがとうございました。
              中村 哲次郎」
読んでいて響子は感動して泣いた。
自分の仕事がこんなに皆に喜んでもらって

だが、様相は逆転した。
バブルが崩壊してからは、企業はバブル期時代に水増しして採用した社員をいかに整理して、身を軽くして悪化している企業の業績を上げることに終始したのだ
響子も転職の仕事から、今度は、企業から頼まれてリストラ社員の話を聞き、それを企業に報告する仕事に変わってしまった。
「ああ、私は、何時のまにか」
大きく廊下でため息をついた。

響子は、幾ら不況で企業が業績が悪くてもリストラとか、中高年者の早期勧奨対策には反対だった。
原価コストを下げるとか、品質管理の徹底化、生産、販売流通コストの節減化、遊休不動産
の処分、などを徹底的にやって最後にリストラすべきだわ、
との思いが誰よりも強かったのだ。
時々企業から依頼を受けた人材節減、リストラ策に出かけては企業の担当者に会い、
彼女自身、あらゆる企業の資料を分析し他結果を相手企業の人事部長の目の前に置いて、
説明し始める姿は迫力があって相手はちょっとたじろぐのであった。
「ちょっとお伺いしますが、御社のリストラ計画の50人、この数字何とかならないでしょうか」
「えっ」
「私が申し上げたいのは、50人全員でなく何とかもう少し、御社の経常利益も前年対比-3、5%で人件費の節減を図る、それもよくわかります、でも一番夫を頼っている家族にとって、リストラするということは家庭で奥さんが頼りにしている働き手を失い生活破綻をきたすことになるのです。ですから私はお願いをしているのです。リストラを何とか最小限にしていただいて、今日給与の多少の減額を、苦しい時には皆でその苦しみを分け合って・・・・・・」
と応対に出た人事担当者を前に自分の考えていることを熱意をこめて話した。
時には、
人事部長から、
「あなたの言われることもよくわかるけれど、ヒューマン・サプライ社さんは、われわれの企業の要望を取り上げてくれる人材斡旋会社ですよね、失礼ながら小野さんの言われることはちょっとわが社の内部まで干渉されています」
と迷惑そうな顔をして響子をじっと見つめた。
「つい、言い過ぎまして申し訳ございません」
響子が何とか企業の人材を有能にリストラなんかしないで活用したいと思えば思うほど、抵抗は強くなっていったのだった。

響子はふと広井のことを思い出した。
「あの人、おじさまへの報告でがっかりして」
首をかしげながら、
「もしかして・・・・・」
次の二字のことばがひらめいた。自殺
響子がそんなことを考えるほど、最近はサラリーマンのリストラ・ストレスが重なっての自殺件数は群を抜いて多かったのだ。

翌朝、会社に出勤すると、さっそくマネージャーのミシエルに呼ばれた。
「お呼びでしょうか」
響子は一礼してマネージャーのそばの椅子に腰掛けた。
「オオー、小野さん、あなたのおかげで無事に東西通信のこと片付きました」
「はあ」
響子は自分を信じて何でも明るく振舞って話をしてくれた廣井のことが気になっていた。
「小野さん、東西の部長喜んで電話今来ました」
「そうですか」
響子はそれ以上、話せなかった。

「東西は業績は今のところいいけど、早期退職者を含めて500人ほど、人事異動したいと」
「えっ、そんなに・・・ですか」
「あなたは、頭の回転がよくて、優しくて、可愛くて、だけど日本人のように情をはさまず、会社、リストラの仕事してくれてます」
「でも、そのお話聞くと」
「そこで、今度はサニー自動車の仕事やってもらえますか」
といってマネージャーは、一冊のファイルを響子に差し出した。
「わかりました、私にも・・・・ご返事2~3日間待ってください」
響子は、マネージャーのミシェルに軽く頭を下げて部屋に戻った。

部屋では、電話がひっきりなしにかかってくる。
響子は、いつも何かと失敗しては、皆に怒られている上原亜希子を使おうと思った。
「小野先輩、あたし、先輩にずっとついて行きます」
と慕っている彼女を何とかして一人前に育ててあげたいと思っていたのだ。
亜希子は高校を卒業後、日露学院に行ってこのあと、なぜかロシアのモスクワにロシア語の勉強を習いにいっていたという会社では変り種だった。
外資系なのに、英語をやらないでロシア語を習ったという経歴が面接の役に立ったのか、目に止まり、英語の成績も努力家でよかったので採用になり、小野響子のところに配属されたのだった。
しかし、生まれながらのこせこせしない、そそっかしく、のんびり屋が課内で失敗を度々したのだった。
会議室に行って議事録を配布し終わると、出席者から
「違うぞ、俺のところ22ページがない」
「ああ、僕のところはその22ページが二枚ある」
「うちは9ページが抜けている、誰なんだ」
と会場が鉢の巣をつつくような騒ぎになったのだ。
また、ある時は、新製品開発でのブレーンストーミングで課員が思いのままにアイデアを話してそれをまとめるためにその内容をCDロムに保存してそれをワープロで印刷にかけたのだったが、いざ会議室でその結果の印刷物を上原は配ったのだったが最後の5分間の話をうっかりCDロムに記憶させなかったためにそこが白紙となってしまった。
課員は自分の発言をノートにメモしていたのをそれぞれの記憶で何とか最後のつじつまあわせをしてなんとか乗り切ったが、単純なミスが二回も続き、それ以来亜希子は走りが仕事になった。
小野響子の会社は、外資系の人材斡旋会社だったので、日本にある外国事務所が求人依頼があることもある。
英語・スペイン語・中国語・韓国語などが主だが、ごくまれに在日本の機関が求人依頼してくることもある。
そんな時、唯一ロシア語が話せる亜希子は引っ張り出された。
「なんていっても君の肩にかかっているのだから」
「ロシア語なんて、俺ら、日本語も危ないのに、上原さまさまだよ」
と課員にまで祭り上げられた。
そういうときの上原は、
彼女がいつも見ている上原と違って目は輝いて、生き生きと、
「ズドラストビーチェ、コフェ・パジャルースタ(こんいちは、コーヒーをどうぞ)
モージナ・パズマ・トリエーチ。カルターチク(地図を見ていいですか)
・・・・・・・」とほかの誰にも理解できない流暢なロシア語で職を求めているロシア人と企業担当者を引き合わせて、いや、その物腰と堂々とした態度は、ベテランの響子もたじろぐほどだ。
でも、翌日になると、また亜希子は沈み込んで、
「響子先輩、先輩だけが頼りです、なんでもします」
と響子に相談を持ちかけてくる。
「上原だけど、彼女なんとかしてあげなくちゃなあ」
そんな響子の気持ちとは裏腹に、失敗が怖いのか近頃は、コピーを取ったり、報告書の誤字を訂正したり、社員の机を拭いたり、雑役が彼女の仕事だった。

「上原さん、オーシャン電機の総務部にこれから一緒に行きましょう」
「はい、先輩」
虎の門の会社を出て、十分ぐらい坂を歩くと赤坂にオーシャンビルがあった。
ロビーの受付に響子は名詞を出して訪問を伝えた。
受付の女性が、手元の受話器を取って話をしていたが、
「五階の会議室で部長がお待ちだそうです」
響子は一礼して、上原を連れてエレベーターに乗って五階で降りた。
部長が待っていて、
「これは、小野さま、どうぞ」
と言って右側の会議室に招いた。
響子は、
「最近、うちから派遣した二人はいかがですか」
「水野さんに吉井さん、二人ともよく頑張ってくれています」
「そうですか、安心しました」
「ただ、私どもも仕事に波がありまして、簿記1級の水野さんは引き続き」
「ありがとうございます」
「採用枠がなくて、近く中高年を中心に」
「そうですか、」
「それで吉井さんは3ヶ月で一応契約終了ということで」
上原は、部長と響子の話のやり取りを聞きながら二人の顔を代わる代わる眺めていた。
響子は、側の上原に、
「今回、こちらを担当することになりました上原亜希子です」
と部長に紹介した。
響子の突然の行動に、上原は、あわてながら、ハンドバッグからあわてて名詞を取り出し
震える両手で、名詞をバッグから取り出したものの緊張していたのだろう、ポロリと床の上に落としてしまった。
「し、失礼しました」
亜希子はあわてて屈み、名詞を拾いテーブルに置いて、改めてバッグから新しい名詞を出して震える両手に持って
「大変、し、失礼しました。ヒューマン・サプライ社の上原亜希子と申します、よろしくお願いしますと45度に腰を折って頭を下げた。

挨拶が終わって、ドアの入り口で二人は部長に頭を下げて一階ロビーに下りた。
「あのさ、手が震えていたわよ、気持ちもっと落ち着けて」
「どうも先輩、すいません」
ご苦労っだったわね、今度からあなたの担当よ、頑張ってね」
「せ、先輩、あたしになにも言わないで、ずるいですよ」
と、響子に詰め寄ってくる。
「あなたも入社、半年でしょう、いつまでも男性の走りやっててどうするの?」
「そんな、先輩、もし、今度失敗したらあたし、会社に居られなくなりますよ」
「あのさ、ロシア語で応対している時の態度はもう立派なものよ、あの時のあなたを見てると負けちゃいそう」
「はい」
「だから、あの時のことを思い出して頑張るの、ロシア語生かして働けるところがあればね、
でも、日本では」
「・・・・・・・」
「とにかく頑張るの、いまのように消極的だと落ちこぼれになるわよ」

アシスタントディレクターという役付が頭に覆い被さっている。
私が今考えていることと反対に後輩を、会社は違ってもやることは同じ、こんなに変わって行ってる気持ちは、廣井に出会ったらどうしようかしらとも考えていた。

「お昼いかない」
同僚の佐々木と麻生が誘ってくれた。
「ううん、一人にしといて」
「今日の響子変よ、じゃあ私たちお先に」
誰もいない電気も消された部屋でミシェルから渡されたファイルがあった。
そこにはサニー自動車の総務部長から300人の早期退職者、管理者削減に伴う・・・読んでいて響子は胸の詰まる思いがした。

皆の行かないところでお昼食べよう
響子は地下鉄に乗って日比谷のほうに行こうとしていた。
地下鉄の中で、もし、自分をあんなに信用してくれた広井に会ったら
ぼんやりと地下鉄の窓際で点々と過ぎてゆくトンネル内のランプを見つめていた。
日比谷を降りて、サムと書いてあるレストランに寄った。
ここはいろいろなスパゲティーがあって、雑誌にも取り上げられてOLたちの人気の店だった。
お昼休みとあって華やかなOLたちのはじけるような話し声の中に、響子は砂漠のような殺伐さを感じていた。
「私の、好きで望んでいた仕事が、なぜこんな人を不幸に・・・」
そう、思うと、廣井のこともあってか、店員が運んで来たいかすみのスパゲッテイーが涙でかすんでぼうっと見えた。

翌日、響子は、昨夜一生懸命書いた退職願いを持って人事部に行った。
部長の鈴木健一が、
「やあ、小野君、君の素晴らしい働きで、各会社からも、僕のところにもお礼の電話が来てるよ」
「部長、私、今日で辞めさせてください。長い間お世話になりありがとうございました。ですが、依頼受けた東西通信の仕事は責任持ってやらせていただきます」
そういって響子は退職願いを部長の前に差し出した。
「おい、おい、小野君、どうして、わが社にとっては君のような」
と部長が慰留しようとするのも聞かないで、
「とにかく、私の決心は固いです、本当にお世話になりました」
そういって、きびすを返して人事部の室を出て行った。
皆が唖然としてる中で、アシスタントディレクター 小野寺響子という横書きのプレートをそっと伏せて、
「皆さん、どうも長いことお世話になりました」
課員たちは、響子の突然の行動にあっけにとられて響子のほうをいっせいに振り向いたが無言だった。
丁寧に頭を下げて、それから机の引き出しの私物をバッグに入れた。

「小野君、早まってはいけないよ、君も疲れたのだろう、二、三日休みなさい、有休もなしに働いてきたんだから、この退職願いは預かっておくから」
「だけど、私の決心は決まっています、皆さん本当にお世話になりました」
そういって部屋を出て、エレベーターに乗ろうとした時だった。
上原亜希子が駆けてきて
「先輩、辞めないでください」
「上原さん、でもあたしの決心変わらないの、あなたにも何もしてあげられなくてごめん」
「先輩にずうとついていきたいと思っていたのに」
上原は泣きそうな顔をした。
「でも、遠い所にいくわけじゃないし、いつでもケータイで連絡してちょうだい」
「先輩」
「先輩は昨日、いつまでも走りじゃだめよ・・・といいましたよね」
「ええ」
「だから私頑張ろうと」
上原が、
「本当にありがとうございました」
そういったときエレベーターのドアが閉まった。
エレベータを降りて、壁を思わず手で触れてみた。
天井から一階ロビーに差し込んでくる陽光が、響子には偉く眩しく感じられた。
この会社もはや10年たったか
見慣れた会社の光景が遠く去っていくように思えた。
複雑な気持ちだった。

会社って、辞めるときには案外簡単なんだよなあ、入る時はあなたのような方こそ、支度金まで、くれたのに、まあ、部長はゆっくり休養取りなさいといってくれたけど、あれは社交辞令だよ、と思う一方、
だけどさ、もし、小野さん辞めないでくださいと皆に言われて、止められたら
あたしだって辞めにくいかも
10年という月日は、重いなあ
心の中で葛藤しながら、
「もう、退職届けまで出したんだし考えるのよそう」

小野響子は部長、それにマネージャーからも信頼が厚く、アシスタントディレクターにまで登り詰めたのだった。
一方、響子が頑張れば頑張るほど、企業から人員整理の話が舞い込んできた。
あたしが、頑張れば、リストラ、人員整理で陰で泣く皆がいるし、あたしがここで辞めて・・・・減るんだ、泣く人が
そう思うと、これまでの精神的疲れやストレスから開放されるように、急に身体の重荷が降りてゆくようだった。

でも、三十三歳になった響子をこれから正社員として、まして役付きで迎えてくれそうなところはなかった。
明日から、派遣でもやるか、そう思いながら一抹の不安もあった。
重いドアを押して、響子は外に出た。
しばらく歩き、振り返ってビルを手をかざして見上げた。
オリエントビルの45階建ての20階、21階が響子のヒューマンサプライ社だった。
感傷的になってきて、
このビルともお別れね、さよなら、自然に涙がこぼれて、小声でそういった。

一時間後、響子はお台場海浜公園を降りて人口なぎさにに来ていた、この間広井とデートしたことを想いだすかのように、夕日を浴びた富士が、古風な広重の絵のように美しかった。夕方、一番客を乗せたのか、観光フェリーが静かに目の前の海を通り過ぎて行く、
響子の大きな瞳は対岸の芝浦、汐留、霞ヶ関、はては新宿までの都会のビル群のシルエットを追っていた。あの中で喜んでいる人いるし、あたしみたいに悲しんでいる人も、
波が静かに、響子の足元を濡らした。

これでよかったんだ、あたしは人のためになって喜んでもらえる仕事に喜びを感じてきたのだ、それがいま、いくら仕事のためと言ってもリストラのお手伝いは
そう思いながら、響子は廣井のことを考えていた。
なぎさの側を手を握って歩くカップルが増えて行く中で
広井さん、不器用な人だし、あたしがおじさまに報告したこと
そう、思いながらいつまでも一人、段々きらめいてゆく対岸の光景を眺めながら廣井のいない海岸のベンチにたたずんでいた。

三日後、広井の三重鈴鹿工場転勤の送別会が開かれた。
営業企画課全員12人が出席した。
「廣井君のために、皆集まってもらってありがとう」
皆がいっせいに拍手した。
カラオケセットが用意されて、
部長がスバルを歌った。
みどりが、
「部長っていつもあれよね、ほかの歌知らないのかしら」
こうやって、マイクは左回りで広井の番になった。
「廣井君」
「廣井さん」
皆の声に後押しされるように、
「では、新曲」
「それって、また韓国」
「いや、今日は国産だよ」
皆を和ませる一声に皆いっせいに笑う。
「それでは、最近覚えた曲で」
「主任、わ~、かっこいい」
「いいから、早く歌えよ」
「ひろ~い、ひろ~い、ひろ~い」
大田がそういうとシュプレヒコールが輪となって広がって行く。
それじゃ、中島美佳の見えない星」
「お前、どこからそんな新しい曲を」
「いいぞ、廣井君」
「すご~い、廣井さんて何でもうたっちゃうんだから」
廣井の歌で会場が大きく盛り上がったのは言うまでもなかった。

廣井の三重鈴鹿工場行きはそれから一週間たってからだった。
彼を取り囲むかのように三十人ほど見送りの数が多かったのは、営業企画部を中心に十年という本社勤務の表れだった。
春爛漫、会社の転勤の見送り客に混じって新婚のカップルが以外に多かった。
「お待たせしました、十一番線からひかり109号博多行きが発車します。お見送りのかたは」
案内放送が流れる中で拾いは見送りに着てくれる皆と握手を交わしていた。
小柄なみどりが、
「廣井さん、頑張ってね、私のこと忘れないでね」
そう言って、皆を掻き分けてきてピンクのバッグから小さな箱の包みを廣井に差し出して小声で
「広井さん、これ」
といって手に握らせた。みどりは広井に手を差し伸べて
「明日から広井さんがいない、私悲しい」
そういって緑の顔を見ると涙ぐんでいる。
「これで、泣かないで、また一緒に仕事も出来るよ、きっと」
そういいながら格子模様の男のハンカチをみどりに、
「拭きなさい、これで」
と渡した。
「広井さん」
そういって彼女はハンカチを目にあてて涙をぬぐっている。
「広井さん、ありがとう、どうも、これ」
彼女が右手でドアに手を差し伸べて彼に渡そうとした瞬間、新幹線のドアが閉まった。
それをホームの陰でひっそりと見ていた女性がいた。格子模様のショートなジャケットに大きな花柄のスカートを着て、赤い小さなボストンバッグを手にしていた。

グリーン車は空いていた。
廣井のために赴任旅費の不足分を皆がカンパしてくれていたのだ。
皆の親切がこうして僕をグリーンに乗せてくれて
情にもろい彼はそう思って、これから先の慣れない三重鈴鹿工場の生産ラインでの副課長、役付きで赴任するだけに知らないとはいえない重荷にちょっとだけ皆の好意を感じていた。
東京タワー、田町のビル群が過ぎ去って行き品川を過ぎた。
列車がここから徐々にスピードを出そうと、車内が一つ揺れた。
広井は発車間際に、みどりがくれた小さな箱の包みのリボンを解いた。
中には黒色の万年筆があり、一枚の花柄模様の便箋があった。
広井が広げると、
「広井さん、今までありがとうございました。私、広井さんが本社に帰ってくるまでいつまでも待っています。これ私だと思って使ってください 葵 美登里と書かれてあった。

その時だった。ドアーを勢いよく開けていき弾ませて賭けてくる女の人が、広井は万年筆の入った箱を上着のポケットに閉まった。
ボストンバッグを手にした女性が、
「廣井さ~ん」
といって駆けてきて、彼の腰掛けているグリーン車の席に手を置いた。
廣井は一瞬、目を疑った。
「あっ、あの時の、あなたは、・小野・・きょう、響子さんでは」
「どこにいかれるんですか、あなたに会いたいと思っていました。この席空いてますよ」
「ああ、グリーン券、僕が出しましょう」

響子は、
「ご、ごめんなさい、私はあなたを、だましていました」
「えっ、だましていたって」
「私が皆悪いのです、あなたを」
「ちょっと待ってくださいよ、僕頭が混乱して」
「思い切り、廣井さん、ぶってください、実はあたし、リストラの」
というなり、泣き出した。

「ここじゃ、皆がいるので、デッキの方に」
連結器の継ぎ目のせいか時速210キロのひかりはがたがたと揺れる。
ドアを閉めてデッキが空間になったところで、
「あなたは、なにも悪いことなんかしてません」
「事情がお知りにならないのでそういわれるのです」
響子は、
「私は、外資系の人材派遣会社に勤めていまして、それで会社のお荷物になる社員のリストラをとあなたの会社から依頼があって」
廣井は、
「そうだったんですか、あなたがまさか、私を」
「本当にごめんなさい、あたしを信用して何でも気軽に話して、お台場で一緒に」
響子は泣きながら、広井に謝ってくる。
「あたし、大勢の罪のない心の正直な・・・・仕事に熱心なそんなかたに会って、会社に頼まれて・・・・・・」
「本当に罪なんです、幸せな人を不幸に・・・・・・悲しいんです」

廣井は、
「小野さん、泣かないでください、あなたがリストラ請負業で、仮にうちの部長から頼まれて、僕を左遷させたとしても、」
「本当に、あたしって人の幸せを、自分の仕事ということで、だめに・・・だめに
して・・・来たんです」
といいながらハンカチを目にあてて泣いている。
廣井は、
「大丈夫ですよ、僕はこう見えても案外のんびりとしていて、結構会社でいびられて、でも打たれ強いんです。また、本社に戻りますよ」
といって慰めた。

そういいながら、彼は、一生懸命彼女を慰めたが、最高時速260キロを記録したのか、横揺れがあり、話を聞きながら彼女の身体をしっかりと支えた。
彼女は、
「あたし、廣井さんのおっとりとした何があっても驚かないところが好きなんです」
広井は、
「お気持ちはわかりますし、僕だってあなたとお台場のあの公園で、デートした時に・・」
「あたしも同じです、お台場の公園で・・・・」
「三重の鈴鹿工場に一緒に連れて行ってください」
「・・・・・・・・」
あまりの驚きに言葉を失っていた。
「あたし、廣井さんの工場のパートでも、何でもやります」
響子から、そういわれて、
廣井は、
「ちょっ、ちょっと待っててください、いきなり言われても」
戸惑いを隠せなかった。
僕をリストラ、左遷に追い込んだ女が、この頼りない僕を好きになるなんて
そこまで彼女から言われると、響子が好きだと想いが募った。

だが、彼は冷静だった。
「小野さん、こうしましょう、僕は今夜名古屋の東洋プラザホテルに泊まります
シングル一室取ってるので」
「はい」
「こうしましょう、ホテルのロビーであなたとゆっくりお話しましょう、あなたのお母さん、お父さんも心配していますよ、だから僕からも、あなたからもゆっくりお話しあって、僕はそれに」
「それにって」
「僕は不器用で、それにもう三十三なんです、あなたはお若いんだし。もっと」
広井は、こんなにまで自分のことを考えて、小さなボストンバッグを持って新幹線にまで乗ってきた彼女がとてもいとおしく抱きしめたかった。

そういう気持ちを抑えて、
廣井には結婚して幸せにさせる自信がなかった。
会社でしょっちゅう失敗し、遅刻し、決して他人に迷惑をかけるわけではないが、とらわれず、自分の好きな道を歩み、ある意味で自分勝手なところがあって。
少なくとも家庭的におそらくなれないだろう自分がここにいる、そんなことを考えていた。
「ここじゃなんだから、もう席に戻りましょう」
廣井はやっと泣き止んだ響子の肩に手を添えて、グリーン席の自分の隣に響子を腰掛けさせた。

車掌が5号車のドアを開けて検札に来るのをドアのほうに行って、
「発車間際に乗ったものですから名古屋までグリーン券を一枚」
そういって響子から差し出した乗車券を見せている広井の姿を見て、響子は、
「廣井さんて、なんて思いやりがあるのだろう」
また、泣きそうになった。
「今日は暑いですね、ほら山桜がきれいといっても、こう早くちゃねえ」
廣井の明るい声に、響子は
「廣井さんて本当におかし~い」
と笑顔を見せた。
7号車からアテンダントがやってきて
「お飲み物にアイスクリームいかがですか」
廣井はアイスクリームを買って響子に一つ渡した。
「ああ、これってグリーントリーのアイスクリームですね、おいしいんですよ」
「あたし、アイスクリームが好きだということを広井さん、知っていたんですか、
滅茶苦茶嬉しいです。ねえ、ねえ、広井さんて会社の女の子にもてるんでしょう」
「僕が」
「だって、優しいし、親切だし」
「違いますねえ、僕はそそっかしいところがあって、忘れ物すると、」
「忘れ物・・・するんですか」
「えっ、たまに、そうすると、主任またとか言われちゃって」

はしゃぎながら話しかけてくる響子を見ながら、
廣井は、意表って二つもあるなんて、僕が左遷されたことと、好きです鈴鹿に一緒に、・・・と彼女にいわれたこと、
とにかく、何よりも心配しているお父さんとお母さんのところに返してあげないと、駆け落ちするように彼女が飛び出してきても、結婚は皆から祝福されてするものだ
そう思いながらも一方では、
鈴鹿の赴任先の家で、
「あなた、お帰りなさい、今日はあなたも、私もお給料日なので、あなたの好きなすき焼き、お肉100グラム600円と奮発したの」
そうあたたかい言葉をかけてくれる。響子、
二つの顔を、アイスクリームをなめながら、はしゃぐように話しかけてくる響子を見つめていた。
                         終わり
























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